カテゴリーとは何だったのか ― 分類の道具から意味共有の道具へ ―
はじめに:マーケティングでよく聞く「カテゴリー」とは何でしょうか
マーケティングの世界では、「カテゴリー」という言葉がごく自然に使われています。
カテゴリー戦略。カテゴリー創造。サブカテゴリー。カテゴリーキラー。カテゴリーエントリーポイント。
ブランド戦略の議論でも、「このブランドはどのカテゴリーで戦うのか」「既存カテゴリーの中でどう差別化するのか」「新しいカテゴリーを作ることはできるのか」といった問いが、当たり前のように出てきます。実務の会議でも、「その商品はどの棚に置かれるのか」「競合はどのカテゴリーにいるのか」「顧客はこの商品を何として理解するのか」といった話がなされます。
しかし、少し立ち止まって考えてみると、不思議なことがあります。
そもそも、カテゴリーとは何なのでしょうか。
マーケティングでは、市場はカテゴリーに分かれていると考えます。消費者はカテゴリーを思い浮かべてからブランドを選ぶ、とも考えます。企業は、カテゴリーの中で差別化したり、カテゴリーそのものを作ったりしようとします。
ところが、「カテゴリーとは何か」という問いそのものは、マーケティングの教科書では意外なほど深く扱われていません。もちろん、それには理由があります。カテゴリーという概念は、一見すると単純そうに見えて、掘り下げると非常に難しいからです。
カテゴリーという言葉はとても身近です。しかし、その正体を考え始めると、哲学、認知科学、社会学、そしてマーケティングを横断する、かなり長い知的な旅が始まってしまいます。
この記事では、その旅を少しだけたどってみたいと思います。
目的は、カテゴリーの定義を一つ決めることではありません。むしろ歴史を振り返りながら、カテゴリーという概念がどのような目的で使われ、どのように姿を変えてきたのかを見ていきます。
その先に、現代マーケティングにおけるカテゴリーの見方も少し変わってくるかもしれません。
とくに本稿で注目したいのは、カテゴリーが「分類の道具」から「意味共有の道具」へと変化してきたのではないか、という点です。
1. そもそも分類とは何でしょうか
私たちは、日常的にさまざまなものを分類しています。
犬と猫は違います。鳥と魚も違います。野菜と果物も違います。洗剤と柔軟剤も違います。
スーパーに行けば、商品は棚ごとに分類されています。ネットで買い物をするときも、検索画面にはカテゴリーがあります。大学では学問分野が分類され、図書館では本が分類番号に従って並べられています。
分類がなければ、私たちは世界をうまく扱うことができません。何かを探したり、比べたり、説明したりすることも難しくなります。
分類とは、世界を扱いやすくするための基本的な知的操作だと言えるでしょう。
しかし、もう少し考えてみると、分類はそれほど単純ではありません。
犬と猫が違うのは、見た目が違うからでしょうか。鳴き声が違うからでしょうか。生物学的に違うからでしょうか。あるいは、私たちがそれらを違うものとして扱っているからでしょうか。
では、スズメとペンギンはどうでしょうか。
どちらも鳥です。しかし、多くの人は、スズメの方が「鳥らしい」と感じるのではないでしょうか。ペンギンも鳥ですが、空を飛びません。見た目も、私たちが思い浮かべる典型的な鳥とは少し違います。
もしカテゴリーが単純な属性の集まりであるなら、スズメもペンギンも同じように「鳥」として感じられてもよさそうです。
しかし実際には、私たちの感じ方には濃淡があります。
あるものは典型的で、あるものは周辺的です。
さらにややこしい例があります。
トマトは野菜でしょうか。果物でしょうか。
植物学的には、トマトは果実です。しかし料理の世界では、トマトは野菜として扱われることが多いでしょう。スーパーでも、多くの場合は野菜売り場に置かれています。
では、どちらが正しいのでしょうか。
この問いは単なる豆知識ではありません。
ここには、カテゴリーという概念の難しさが表れています。
分類とは何か。カテゴリーとは何か。
それは対象そのものの属性によって決まるのでしょうか。それとも、人間の目的や使い方によって変わるのでしょうか。
この素朴な疑問が、カテゴリーをめぐる長い議論の入り口になります。
2. カテゴリーは世界の構造だった ~古代ギリシアから中世へ:本質としてのカテゴリー~
カテゴリーについて考えるとき、出発点としてよく名前が挙がるのがアリストテレスです。
アリストテレスにとって、カテゴリーとは世界そのものの構造を理解するための概念でした。
世界にはそれぞれのものに固有の本質がある。犬には犬の本質があり、猫には猫の本質がある。人間は、その本質を理解することで世界を知ることができる。このような考え方です。
この考え方では、カテゴリーは人間が勝手に作るものではありません。
世界の側に、すでに分類の根拠が存在している。人間はその根拠を発見し、言葉によって表現する存在だと考えられました。
順番としては、次のようになります。
世界がある。
世界には構造がある。
人間はその構造を認識する。
そして、その認識をカテゴリーとして表す。
この見方では、カテゴリーは世界を分類するための道具でした。カテゴリーを知ることは、世界の本質を知ることに近い意味を持っていました。
この発想は、実は私たちの日常感覚にもよくなじみます。
私たちは普段、モノにはそれぞれ「それらしさ」があると考えています。犬らしさ、猫らしさ、椅子らしさ、鳥らしさ。その「らしさ」があるから分類できるのだ、と感じています。
マーケティングでも、これに近い考え方はしばしば見られます。
たとえば、「これはビールである」「これは洗剤である」「これは化粧品である」といった分類は、一見すると商品の属性によって決まっているように見えます。原材料、機能、用途、形状などがあり、それらに基づいて商品カテゴリーが決まるように見えます。
この段階のカテゴリー観では、カテゴリーは世界の側に存在するものです。
マーケターは、それを発見し、整理し、利用する立場にいます。
こうした考え方は後に**本質主義(Essentialism)**と呼ばれるようになります。
カテゴリーには共通の本質があり、その本質を見つけることで分類できるという考え方です。
しかし、この見方だけでは説明できないことが次第に見えてきます。
同じ商品でも、誰が、どの場面で、どのような目的で使うかによって、まったく異なるカテゴリーとして理解されることがあるからです。
3. カテゴリーは知識を整理する道具になった ~近代科学の時代:分類と管理のためのカテゴリー~
古代から中世にかけて、カテゴリーは世界の本質を理解するための概念でした。
しかし近代に入り、科学が発展すると、カテゴリーには別の役割が求められるようになります。
その背景にあったのは、知識の爆発的な増加です。
人類は、生物を分類し、鉱物を分類し、病気を分類し、本を分類し、商品を分類するようになりました。知識が増えれば増えるほど、それを整理し、保存し、共有する仕組みが必要になります。
そこでカテゴリーは、「世界を理解するための道具」から、「知識を管理するための道具」へと少しずつ性格を変えていきます。
リンネの生物分類、百科事典、図書館分類、統計分類、企業の製品分類、そして情報システムにおけるオントロジーなどは、その代表例です。
ここで重要なのは、視点の置き場所が変わっていることです。
古代のカテゴリー論が「世界にはどのような構造があるのか」を問うものだったとすれば、近代のカテゴリー論は「増え続ける知識をどう整理するか」を問うものだったと言えます。
たとえば図書館では、本を何らかの分類体系に沿って並べなければなりません。そうしなければ、必要な本を探すことができません。
このとき重要なのは、その分類が世界の真理を表しているかどうかではなく、多くの人が同じルールで本を探せることです。
分類は、知識へのアクセスを可能にする仕組みになります。
企業の情報システムでも同じです。商品、顧客、取引、部門、業務プロセスなどを整理し、共通の言葉で扱えるようにする必要があります。
営業部門、物流部門、経理部門、マーケティング部門が、それぞれ異なる言葉で同じ対象を扱っていたら、業務は混乱します。
この段階でのカテゴリーの目的は、知識の整理と共有です。
ただし、ここでいう共有とは、「同じ意味を理解すること」ではありません。
誰が見ても同じ分類になるようにする。検索できるようにする。記録できるようにする。比較できるようにする。
カテゴリーは、情報を管理するための共通ルールとして機能します。
言い換えれば、この時代のカテゴリーは管理の道具でした。
マーケティングでも、この考え方は非常に重要です。
市場規模を測るには市場を定義しなければなりません。競合を分析するには競合カテゴリーを決めなければなりません。POSデータを分析するにも商品分類が必要です。
つまり、カテゴリーがなければ分析そのものが成立しません。
しかし、この段階のカテゴリーは、あくまで「整理する側」から見たカテゴリーでした。
分類体系がどれほど整っていても、それが人間の実際の感じ方や理解の仕方と一致するとは限りません。
やがて研究者たちは、別の問いを立てるようになります。
人間は、本当に分類表のとおりに世界を理解しているのだろうか。
次に登場するのは、「人間の頭の中」に注目したカテゴリー研究です。
4. カテゴリーは人間の頭の中に移動した ~20世紀認知革命:典型性と家族的類似のカテゴリー~
20世紀になると、カテゴリーをめぐる問いは大きく変わります。
それまでの問いは、主に「世界はどのように分類されているのか」でした。しかし研究者たちは、次第に別の問いを立てるようになります。
人間は本当に、そのように分類しているのでしょうか。
ここで重要なのが、ウィトゲンシュタインの「ゲーム」の例です。
将棋はゲームです。サッカーもゲームです。鬼ごっこもゲームです。トランプもゲームです。コンピュータゲームもゲームです。
しかし、これらすべてに共通する本質を探そうとすると、意外とうまくいきません。
勝敗があるものもあれば、ないものもあります。道具を使うものもあれば、使わないものもあります。一人でできるものもあれば、複数人で行うものもあります。
それでも、私たちはそれらを「ゲーム」と呼びます。
ここで登場するのが、「家族的類似性(Family Resemblance)」という考え方です。
カテゴリーは、必ずしも一つの共通本質によって成立しているわけではありません。家族の顔がどこか似ているように、部分的な類似が重なり合うことで、一つのまとまりとして認識されることがあります。
この考え方は、カテゴリーを世界の本質から切り離します。
カテゴリーは、世界の中に固定的に存在するものではなく、人間がどのように似ていると感じるのかに関わるものになります。
その後、ロッシュのプロトタイプ理論が登場します。
これは、人はカテゴリーの中に典型的な例を持っている、という考え方です。
鳥でいえば、スズメやハトは鳥らしい鳥です。一方、ペンギンやダチョウも鳥ではありますが、やや鳥らしさが弱いと感じられます。
家具でいえば、椅子や机は家具らしい家具ですが、照明器具やカーペットは少し周辺的に感じられるかもしれません。
ここでカテゴリーは、境界が明確な箱ではなく、中心と周辺を持つものとして理解されるようになります。
この段階で、カテゴリー研究の問いは大きく変わりました。
世界はどう分類されているか。
↓
人はどう分類しているか。
カテゴリーは、世界の構造から、人間の認知の構造へと移動したのです。
これはマーケティングにとって非常に重要です。
なぜなら、マーケティングが向き合うのは、商品の物理的属性そのものではなく、消費者がそれをどのように理解しているかだからです。
たとえば同じ飲料でも、ある人にとっては「炭酸飲料」であり、別の人にとっては「気分転換のための飲み物」であり、また別の人にとっては「眠気を覚ますためのもの」かもしれません。
商品の属性だけを見ても、消費者のカテゴリー認識は十分には説明できません。
ここで、カテゴリーの視点はさらに移動します。
カテゴリーは市場の外側に存在する客観的な箱ではなく、人間の認知の中で形成されるものとして理解されるようになったのです。
5. カテゴリーは状況の中で使われるようになった
しかし、ここまで来ても、まだ疑問は残ります。
人間の頭の中にカテゴリーがあるとしても、それはいつも同じように働くのでしょうか。
たとえば、先ほどのトマトです。
植物学では果物です。料理では野菜です。ジュースを作る場面では果汁原料のように扱われるかもしれません。スーパーの売り場では野菜として扱われ、研究室では果実として扱われ、家庭料理ではサラダの材料として扱われます。
同じ対象であっても、状況によって分類が変わります。
これは、カテゴリーが単に頭の中に固定された箱として存在しているわけではないことを示しています。私たちは、目の前の課題や目的に応じて、分類の仕方を変えています。
料理をする人にとって重要なのは、植物学的な定義ではありません。味、使い方、調理方法、食卓での役割です。栄養士にとっては栄養素が重要かもしれません。小売業者にとっては売り場の配置が重要かもしれません。消費者にとっては、「今日の夕食に使えるかどうか」が重要かもしれません。
このように考えると、カテゴリーは「対象を正しく分類するためのもの」ではなく、「行為をうまく進めるためのもの」として見えてきます。
人間は、頭の中だけで世界を分類しているわけではありません。身体を使い、道具を使い、状況の中で行動しながら、必要な分類を行っています。
マーケティングでも同じことが言えます。
ある商品がどのカテゴリーに入るかは、商品の属性だけで決まるわけではありません。消費者がどのような状況でその商品に出会い、どのような目的でそれを使うかによって変わります。
たとえば同じチョコレートでも、自分へのご褒美として買う場合、職場で配るために買う場合、バレンタインの贈り物として買う場合では、その意味は大きく異なります。
商品としては同じチョコレートでも、消費者の行為の中では異なるカテゴリーとして働いている可能性があります。
ここでカテゴリーは、認知の箱から、状況の中で使われる道具へと変わります。
しかし、状況そのものも個人だけで作られているわけではありません。
私たちは職場、学校、家庭、コミュニティ、市場など、さまざまな社会的環境の中で行動しています。
だとすれば、カテゴリーは個人の頭の中だけで作られるものでもなければ、目の前の状況だけで決まるものでもないのかもしれません。
次に登場するのは、人々が共有する意味としてのカテゴリーです。
6. カテゴリーは人々が共有するものになった ~マーケティングはカテゴリーを「作る」ようになった~
ここまでの議論は、主として哲学、分類学、認知科学におけるカテゴリー研究の流れでした。
マーケティングは長らく、そこで得られたカテゴリー概念を、市場分析や商品分類に利用する立場に近かったと言えます。
つまり、カテゴリー研究の本流は、「人はなぜ分類するのか」「人はどう分類しているのか」を考えてきました。
一方、マーケティングは、「すでにある市場をどう分けるか」「どの市場で戦うか」「どの顧客に訴求するか」という実務的な問いのために、カテゴリーを使ってきました。
しかし、現代のマーケティングでは問いが少し変わります。
マーケティングでは、単に人々がどう分類しているかを知るだけでは足りません。
企業は、人々にどのように分類してもらうかを考えるようになったのです。
ここが非常に面白いところです。
従来のマーケティングでは、市場を分析し、セグメントを分け、ターゲットを定め、ポジションを取るという考え方が中心でした。いわゆるSTPです。
この段階では、カテゴリーはすでに存在する市場の区分として扱われます。
ビール市場。洗剤市場。シャンプー市場。炭酸飲料市場。
企業はその中で、どの顧客を狙い、どのような違いを打ち出すかを考えていました。
しかし競争が激しくなると、それだけでは差別化が難しくなります。
そこで企業は、既存カテゴリーの中に新しい切り口を持ち込み始めます。
プレミアムビール。ゼロコーラ。オーガニックシャンプー。強炭酸。リカバリーウェア。高たんぱくヨーグルト。
こうしたサブカテゴリーは、既存市場を細かく分け直す試みです。
さらに進むと、企業はカテゴリーそのものを作ろうとします。
エナジードリンク。完全栄養食。SaaS。Inbound Marketing。ノンアルコールビール。フェムテック。推し活グッズ。
これらの言葉は、単なる分類名ではありません。
「このように世界を見てください」という提案です。
重要なのは、こうしたカテゴリーが自然に発見されたものではないということです。
誰かが名前を付ける。
その名前に多くの人が納得する。
その名前で世界を見る人が増える。
その結果として、カテゴリーが成立します。
ここでは順番が逆転しています。
古典的なカテゴリー観では、
世界がある。
それを分類する。
分類に名前を付ける。
という順番でした。
しかし現代マーケティングでは、
名前を付ける。
その名前によって見方が生まれる。
見方が共有される。
カテゴリーが成立する。
という順番になることがあります。
カテゴリーは、発見されるものではなく、作られ、共有されるものになったのです。
ここまで来ると、カテゴリーは単なる分類の道具ではありません。
カテゴリーとは、人々が共通の意味を理解するための枠組みになっています。
そして、この姿は、この記事の冒頭で述べた問いにもつながっています。
カテゴリーは「分類の道具」から「意味共有の道具」へと変化してきたのではないか。
現代マーケティングは、その変化が最もよく見える場所の一つなのです。
7. 奇妙なカテゴリーたち ~ 物の分類では収まらないチェキ・遺影・お守り~
ここまでの話は、カテゴリーの歴史をたどるものでした。世界の構造としてのカテゴリー。知識を整理するカテゴリー。人間の認知としてのカテゴリー。状況や行為の中で変わるカテゴリー。そして、マーケティングが作り出すカテゴリー。
しかし、日常には、さらに奇妙なカテゴリーがあります。
それは、物の属性だけではうまく説明できないカテゴリーです。
たとえば「遺影」です。
遺影と聞くと、多くの人は写真を思い浮かべるでしょう。葬儀の場に置かれる、故人の写真です。しかし、孫が描いた似顔絵が遺影として使われることもあります。その場合、それは写真ではありません。それでも遺影です。
つまり、遺影というカテゴリーは、写真という物理的属性だけでは説明できません。写真であることが重要な場合もありますが、それだけではありません。故人を偲ぶための表象として、社会的に意味づけられているから、遺影として成立しています。
次に「チェキ」です。
チェキは、もともとはインスタントカメラの商品名です。しかし今では、単なる撮影機器を超えた意味を持っています。
友達と撮る。その場で渡す。文化祭で撮る。旅行で撮る。推しと撮る。カードケースに入れる。部屋に飾る。スマートフォンの写真とは違う、手元に残る小さな記録として扱う。
チェキという言葉には、仲間、青春、記録、共有、親密さ、推し活といった意味が重なっています。このとき、チェキはカメラの一種であると同時に、青春や関係性の記録を象徴するカテゴリーにもなっています。
さらに「お守り」は、もっと不思議です。
神社のお守りはもちろんお守りです。しかし、人によっては、恋人からもらった手紙も、子どもが描いた絵も、試合前に身につける古いタオルも、推しのチェキも、お守りになります。
物理的属性はまったく共通していません。形も素材も機能も違います。それでも、それらはある人にとって「お守り」になります。
共通しているのは、「これを持っていると安心する」「何かを託している」「自分にとって大事な意味がある」ということです。
ここではカテゴリーは、属性の集合ではありません。
共有された意味、あるいは個人の中で強く意味づけられた関係に名前が付いたものとして成立しています。
この例は、マーケティングにおけるカテゴリーを考えるうえでも示唆的です。なぜなら、ブランドもまた、物理的属性だけで選ばれているわけではないからです。商品そのものは似ていても、そこに重ねられる意味が違えば、消費者にとってはまったく違うものになります。
チェキ、遺影、お守りの例は、カテゴリーが「何でできているか」だけでなく、「どのような意味を担っているか」によって成立することを示しています。
8. 分類の道具から意味共有の道具へ
ここまで見てくると、カテゴリーという概念の役割は、歴史の中で少しずつ変わってきたように見えます。
アリストテレスにとって、カテゴリーは世界を分類する道具でした。近代科学や情報管理において、カテゴリーは知識を整理する道具になりました。認知科学において、カテゴリーは人間の認知を理解するための道具になりました。状況的認知では、カテゴリーは行為や課題に応じて変わるものとして見られるようになりました。そして現代のマーケティングでは、カテゴリーは意味を共有するための道具になりつつあります。
マーケターは、単に既存のカテゴリーを分析しているだけではありません。新しい名前を与え、人々に新しい見方を提案し、その見方への支持を集めています。
カテゴリー創造とは、一見すると新しい商品分類を作ることに見えます。しかし、より深く見れば、それは新しい意味の共有を生み出す営みでもあります。
エナジードリンクという名前が広がることで、人々はある飲料を「ただの炭酸飲料」ではなく、「エネルギーを与える飲み物」として見るようになります。
完全栄養食という名前が広がることで、人々はある食品を「便利な加工食品」ではなく、「食事の新しい選択肢」として見るようになります。
推し活という名前が広がることで、それまで個人的で散発的に見えていた行動が、一つの文化的実践として理解されるようになります。
名前が変わると、見方が変わります。見方が共有されると、カテゴリーが成立します。
ここに、現代マーケティングにおけるカテゴリーの強さがあります。
カテゴリーは、単なる箱ではありません。カテゴリーは、人々が同じ見方を共有するための装置です。あるいは、まだ名前のなかった経験に名前を与え、それを社会的に共有可能にするための道具です。
このように考えると、カテゴリー戦略とは、競争市場の中で有利なポジションを取るための技術にとどまりません。それは、人々が対象をどのように意味づけるかに関わる営みです。
おわりに:カテゴリーの先にあるもの
本稿では、カテゴリーの歴史を簡単に振り返ってきました。
もちろん、ここで述べたことは大きな流れの整理にすぎません。哲学、認知科学、情報科学、マーケティングのそれぞれには、もっと複雑で豊かな議論があります。ただ、本稿の目的は、それらを網羅することではありません。
ここで確認したかったのは、カテゴリーという言葉が、時代によって異なる役割を担ってきたということです。
かつてカテゴリーは、世界を分類するためのものでした。その後、知識を整理するためのものになりました。さらに、人間の認知を理解するためのものになりました。そして現代では、人々に同じ見方を共有してもらうためのものとしても使われています。
このように考えると、マーケティングにおけるカテゴリー戦略やカテゴリー創造は、単なる市場分類の技術ではありません。
それは、人々が世界をどのように見て、どのような意味を共有するのかに関わる営みです。
そして、私自身の関心は、実はこの先にあります。
なぜ人は新しいカテゴリーを受け入れるのでしょうか。なぜチェキは青春の記録になり、遺影は写真でなくても成立し、お守りはどんなモノにもなりうるのでしょうか。
そこには、カテゴリーそのものだけではなく、人が対象に意味を重ね、共有し、固定していくプロセスがあるように思います。
カテゴリーとは、対象を分けるための箱であるだけではありません。人が意味を置き、他者と共有し、世界の見方をそろえていくための足場でもあります。
この先には、命名、意味形成、プロジェクション、共有された見方、そしてブランドがどのように人々の経験の中に入り込むのか、という問題があります。
この話は、また別の機会に整理してみたいと思います。
参考文献リンク
- [カテゴリ]:カテゴリーという語の哲学的背景、アリストテレス、カントなどへの導線。
- [範疇論 (アリストテレス)]:アリストテレスのカテゴリー論の入口。
- [哲学]:古代ギリシアから近現代への大きな流れを確認する入口。
- [家族的類似]:ウィトゲンシュタインの「ゲーム」の例と、古典的カテゴリー観への批判。
- [プロトタイプ理論]:ロッシュ以後の典型性・中心性・周辺性の説明。
- [STPマーケティング]:市場を分け、標的を定め、位置づけるマーケティングの基本枠組み。
- [フィリップ・コトラー]:STPや近代マーケティング理論の入口。
- [インスタントカメラ・チェキ]:チェキの製品史とブランドとしての広がり。
- [遺影]:写真・肖像画・葬儀文化との関係。
- [お守り]:物品、護符、縁起物としてのお守りの幅広さ。
- [栄養ドリンク]:エナジードリンクとの関係を考えるための入口。
